ウイメンズライフコーチYoshief の日記のようなものです


by Yoshief
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阪神大震災から20年目の1月17日

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 神戸に帰った頃が、成人の日だったからもあるだろうけれど、1月17日を前に、テレビでも新聞でも、神戸は震災の話でもちきりだった。

 あれから、20年が経つなんて、信じられない思いがする。

 あの朝2階で寝ていた私は、揺れで起きて、すぐに階段を下りた。

 思えば、階段を照らしていた電燈の笠が割れて、ガラス片が落ちていたと思うのだが、素足で下りた私も母も、ケガはしなかった。

 近所の人が数人、懐中電灯を振りながら名前を呼んでいて、「はーい」と答えながら玄関扉を開けようとしたが、地震で家自体が狂ったのか、引き戸がなかなか開かずにパニックになってしまった。

 私は得体のしれない恐怖にかられて、必死でドアをあけようとしていたが、母は戦争をくぐりぬけてきただけのことはあり、いたって平静で、トイレに行ったりしていた。

 やっと扉があくと、十人以上の人が道に、毛布をかぶった状態で立っており、誰かが家から持ち出してきたラジオが鳴っていた。
 地震ということはわかったけれど、何が何かわからず、私は家にもどって着替えると、散らかった一階を片付けることにした。

 ふつうなら職場に行くところだが、こんな状況で働きに行けるものかを考えているあいだに時間が経ち、ようやく10時半ごろになって、「やっぱり行ってくる」と言って、職場に向かった。

 職場には私同様、徒歩で通える人だけが来ており、めちゃくちゃになった事務所を片付けていたら、長田のほうからバイクで来た人が、「第一勧銀も壊れ、センター街のアーケードが崩れている」と見てきたことを話してくれた。

 第一勧銀のビルは大正時代かもっとずっと前に建てられた石造りの建物で、とても壊れそうにないものだったから、本当のこととは思えなかった。

 我が家は幸いに半壊状態で、住める状態だったので避難所には行かなくてもすんだ。

 電気が通じたら、ご飯も炊けるし、電気カーペットも使えたので、避難所に行かざるを得なかった人たちに比べれば、天国にいたようなものだった。

 たくさんの家が倒壊したので、お金持ちもそうでない人も、家が無くなった人は皆、避難所に行った。
 私の親友の両親も、家が倒壊したので避難所に入ったが、お母さんのほうは避難所内でのリーダーになり、お父さんはハワイへ脱出してゴルフをしていたのだそうだ。

 地震のあとすぐに、友人の消息を聞きに彼女が通っていた教会に行って皆で祈ったのだが、人々が口々に「地震のあったのが未明だったので良かった」と言っていた。
 さもなければ、たくさんの身元不明者が出ただろう。

 また、「地震があったのが神戸で良かった」とも言っていた。
 これが東京などだったら、被害はもっと大きくなっていただろうと。

 たくさんの死者・行方不明者が出たけれど、阪神大震災を教訓にしてその後、防災計画が改良・改善された。それで少しは、亡くなった方々も報われた気持ちになられたのではないかと思う。

 1月17日から始まった苦難を、いつまでも決して忘れずに、亡くなった方々のご冥福を祈り続けたいと思う。

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by Eclairer_Japon | 2015-01-16 07:00 | 時々に想うこと